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礼拝を捧げる曜日は日曜日?土曜日?

礼拝の考え方

礼拝について
Faith Valleyの価値観

人によっては、「日曜日に礼拝することが大切」だと、教わっているかもしれません。しかし、よく聖書をみると、日曜日に礼拝を捧げなければいけない神学的な根拠はありません。それは土曜日でもありません。フェイス・バリーがどうしてこのような礼拝スタイルをとっているのかを、ここでご説明します。

​1.なぜ、土曜日に礼拝を捧げるのですか?

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土曜日を選択した神学的な意味はありません。

多くの神学者は、イエスの十字架と復活によって、律法が成就されたと理解して、礼拝は曜日に限定されず、心からの応答としていつでも捧げられると教えます。初期のクリスチャン達は、土曜日と日曜日の両方、礼拝を捧げていました。それが、ローマ帝国下で、ユダヤ教との違いを示すために、日曜日の礼拝が強調されるようになりました。しかし、日曜日に礼拝を捧げなければいけないといった、神学的な意義は聖書から見いだすことができません。
使徒の働きを見ると、パウロは宣教の地を巡って、会堂で説教をしていますが、この礼拝も土曜日だと考えられます。(使徒の働き13:14-15、17:2、18:4)
 パウロは、コロサイ2:16-17で、安息日は、キリストによって成就されたので、拘束力がない点を語っています。また、ローマ14:5-6で、曜日の選びは信仰の自由に委ねられています。最も大切なことは主に心を向けることです。

「ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」ローマ人への手紙 14:5-6

現在の会堂で礼拝できるのが、日曜日以外だったので、土曜日を選択しました。人によっては日曜日に礼拝に来られない方もいらっしゃると思いますので、是非、共に礼拝を捧げられたら感謝です!

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​2.礼拝とは何ですか?何故、毎週集って礼拝を捧げるのですか?

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物としてささげなさい。これこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ人への手紙12:1

礼拝とは、日常のすべてを神にささげる生き方でもあります。神に向かって心と体をもって応答する行為です。神の臨在に気づき、感謝し、賛美し、従うという全人的な応答を意味します。私達は、生きる事、それ自体が礼拝であり、礼拝するために私達は造られました。

そのため、毎週、礼拝堂に集ったり、朝のディボーションで、聖書朗読、黙想、祈りを捧げることだけが礼拝ではありません。生活の中で、神を想いながら、そこに仕えることも礼拝と言えます。仕事を通しても、家事を通しても、学校での学びを通しても、神を礼拝をするように求められています。


神に捧げる生き方が礼拝でありながらも、私達は毎週、聖なる集いをすることを神が求めていると考えています。

 

「六日の間は仕事をすることができる。しかし七日目は全き休みの安息日、聖なる集会の日である。」レビ記23:3

 

神は週に一度、聖なる集まり(礼拝)を持つことを定められました。もちろん、イエス様は、律法を成就しました。それでも、神はスタイルや曜日に流されず、共同体が集う礼拝をすることを述べておられます。

 

「ある人たちのように、集会をやめることはせず、互いに励まし合いなさい。」ヘブル10:25

初期のクリスチャンたちも共同体で集まり、励まし合うことをしていました。共に集う礼拝が、日常の疲れや混乱から離れ、神の愛と真理に立ち返る「魂の再起動」の役割を果たしていました。
   

もちろん、毎週の礼拝に来ない人は、信仰が無い人だと言えません。様々な形で神に礼拝を捧げるスタイルがあって良いと考えています。


「まことの礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」ヨハネの福音書4:23ー24


礼拝の本質は「霊とまこと」です。場所や形式ではなく、心の姿勢と神との交わりが中心です。それでも、私達は、上記ヘブル10:25にあるように、信仰の孤立を防ぎ、互いに励まし合う場が大切だと考えています。

是非、私たちのコミュニティとつながってみませんか?
  

​3.コミュニティの大切さを聖書は何と言っていますか?

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「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」ヨハネの黙示録21:3

聖書は最初から最後までコミュニティ(共同体)を中心に語っています。創世記では人類と神の関係で語られていて、完成した神の国で、神は人類が神の民であることを語っています。
しかし、プロテスタントは、個人の救いを強調したことから、このコミュニティ・共同体としてのアイデンティティが薄れてしまい、特にコロナ禍では、この弱さが顕著となりました。多くの若者達がそれまでの教会を離れました。教会に行かなくても、オンラインで説教を聴けるようになりました。若者にとって信仰は、自分と神様の信頼関係であり、教会は出会いの場でしかないと言う人も多かったと感じています。

聖書は、コミュニティという価値観で語られています。私達が救われたのは、神の民というコミュニティの中に加わり、神の国を共に生きる喜びを味わい、神とのパートナーシップの中で互いを愛し合う人生を歩むものだと考えています。

​教会はコミュニティでもあり、コミュニティの価値観を福音の中に入れることで、さらに福音が私達たちにとって温かいつながりがあることを実感できます。

  

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